西三局七本場

政治や世の中の出来事についての備忘録

安倍総理退任に際して思うこと

最初のトピックでブログを書いてから1年経ってようやく2回目の更新です。3ヶ月おきくらいには更新しようかと思っていたのですが、流石にいきなり間を開けすぎて己のいい加減さがお恥ずかしい限りです。

1年の間にも色々と世界・日本の情勢は動き、香港の民主化運動やBlack Lives Matterの運動など日本人としても決して無視できないニュースや、国内でも公務員の定年延長に関する法案や、コロナウイルスの流行など、次から次へと大きな問題が現れました。

そしてついに安倍総理が退任の意思を固め、誰が自民党の次期総裁になるかが大きな話題となっています。今回は安倍政権に関する評価と次期総裁選にあたって思うことを備忘録がてらまとめてみたいと思います。

 

安倍政権への評価

まずはポジティブに評価できる点を述べるとすると、まずは長期的に安定した政権を築いたことでしょう。当たり前のことですが、政治家が向き合うべき問題は多岐にわたり、目立たなくても大事な問題が山ほどあります。全てを完全にカバーするのはおそらく不可能に近く、適切に優先順位をつけてこなしていかなければならない状況では、安定して法整備を進められる強い政権が必要になります。

目玉の政策はアベノミクス以外あまり進展なく終わりましたが、コツコツと積み上げてきた仕事も少なくないわけですから、その点は評価したいと思います。安倍政権でなければなし得なかったことがどの程度あるかは分かりませんが、いずれにせよ一定の評価はしたいと思います。

 

ネガティブな評価点はなんといっても自民党の体質が悪化したことであり、先に述べたポジティブな点を打ち消して余りあるでしょう。森友学園の問題が発覚した当初は、正直私もあまり深刻に捉えておりませんでした。「総理や総理夫人も全くの無関係ではないようだが、人となりをよく知らない相手に協力してしまったというミスであり、不正に加担する意図はまさかないだろう。であれば、マイナスポイントにしても辞任するほどではなく、国政を進めるのが優先だろう」という具合ですね。

後に公文書改竄が発覚し自分が甘かったと気付かされたわけですが、それからも国家公務員法の強引な解釈変更の閣議決定などで不信を招き、桜を見る会の公文書管理については完全に開き直って無理を押し通す様で、全く呆れ果てました。

 

私が政治を評価する時に最も重要だと思うのは、結果として出てくる政策ではなく、そこに至ったプロセスの合理性であり、論理の整合性です。

多岐に渡る問題に関して、知識や経験、整理されたデータを一国民が把握することは難しく、そのために専門家である政治家に議論を委ねるわけで、私も種々の政策に対して確信を持って主張できることなどほとんどありません。しかし、提示された政策に対して論理の飛躍や矛盾があれば気付けますし、質問に対して論点をずらした回答をされれば分かります。

もちろん、持っている範囲の見識の下で自分の意見を持つようにしていますが、自分と意見の異なる政策でも提示された論理が整合していれば受け入れられるわけです。逆に言えば、どのような政策であれ意思決定のプロセスに納得できなければ不信を抱かざるを得ず、公文書が残らないなどということはあり得ないことです。

 

最も深刻なのは、そのような体質が安倍総理個人の問題というより、自民党内に広く蔓延しているように見受けられることです。あくまで体感ですが、自民党もかつてはここまで露骨ではなかったように思います。こう言うと「昔と変わらない」と言い返されそうですが、もしそうだとすれば昔は巧妙に隠せていただけのことであり、悪質なことに変わりはないでしょう。

今の自民党議員の中には、「国民の代表」というプライドを失い、「支持者の代表」という意識にすり替わってしった方が少なくないようにすら思ってしまいます。批判意見の中には的を外れたものや言葉が過ぎるものがあるのも事実で、野党議員からもその手の批判が出ることがあります。腹が立つ気持ちもよく分かりますし、反論するのも別に良いでしょう。しかしその手のレベルの低い批判のみをピックアップして論破し、本質的な問いに対してはまともに応じないというやり口があまりに横行していて、残念です。政治家、しかも第一党たる自民党の方々には、正面からぶつかって説き伏せていく粘り強さ、そして一つの意見に拘泥せず常に正論側に寄ろうとする柔軟さ(狡猾さとも言える?)を望みます。

 

メディアでよく挙げられる「レガシーがない」という点については、目立たない小さな仕事を確実にこなしていくことの方がトータルでは重要だと思っているのであまり気になりませんが、やりたい放題できる前例を作り、体質を改善しないまま残したという負のレガシーが大き過ぎて、総評としては低い評価をせざるを得ません。

 

次期総裁選について

次期総裁には、自民党の現状に危機感を感じて改善に向かって努力できる方を望みます。濁しても野暮なのではっきり言えば、石破氏を支持しています。私は個人的に結構石破氏を評価しており、前回の総裁選でも支持していました。今回も現状では厳しそうですが、どうにか頑張っていただきたいものです。

現状有力な菅氏個人に対しては特別思うところがあるわけではなく、有能な人だという声もさして疑ってはいませんが、今の自民党の体制を保持するための旗頭とされているのであれば支持できません。

 

今のところ総裁選では党員・党友投票を行わない見込みが強いようですが、そのような決定がふさわしい緊急事態に今が相当するのかどうか、疑問はやはりあります。石破氏の有利・不利に関わるという私の思いもありますが、安倍総理の会見では「新しい総裁を選ぶまでは続け、充分な準備をして引き継ぐから大丈夫だ」という話でしたので、矛盾しているように思います。ただしこれに関しては安倍総理の病状が実際には切迫している可能性もあり、もしそうであれば仕方ないかもしれません(だとしたら正直に言ってほしいものですが)。

 

誰が選ばれるにしても、納得できる方法と根拠をもって決められることを望みます。

 

今回は以上です。

 

憲法改正論議:自衛隊と集団的自衛権について、ゼロから考えをまとめてみる。

ブログを始めて一発目のトピックは憲法9条の改正案についてです。

いきなりセンシティブな議題ですが、実際にこの記事を書いている内に新しい見方が得られたので、私にとっては良い機会になりました。

 

とりあえず最初に現在の自分の意見を表明しておくと、

となります。

いずれも明確な答えはない問題かと思いますが、自分が上のような意見を持つ理由も含めて、一つずつ整理していきます。

 

先に断っておきますが、社会学的・憲法学的な専門的な知見は私にはないので、日頃から自分で色々調べて考えているような方にとって真新しい情報は含みません。

しかし、そうではない私と同類の方(フワッとした理解だったけれどディテールに踏み込めるよう整理したいという方)にはもしかしたら参考になるかもしれません。

 

改正論議の原点:そもそも自衛権はあるのか?

憲法9条改正論議の争点は、概ね二つあるように思います。

 

一つ目は、自衛隊の存在を明記するべきかということ。

二つ目は、集団的自衛権の扱いをどうするかということ。

 

集団的自衛権とは、密接な関係にある他国が攻撃を受けた場合に、直接攻撃を受けていなくても協力して戦える権利のことです。

これに対して、自国が攻撃された場合にのみ戦える権利を個別的自衛権と呼びます。

 

以前は二つの争点をごちゃ混ぜにしやがってずるいな、とも思っていたのですが、真面目に考えるとなかなか単純に分けれるものでもないような気もしてきて、難しいものです。

 

まずは憲法第9条を今一度読んでみましょう。

 

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

 

見たまま読んだら、一見自衛権ないですよね。初めて塾か学校かで習った時、私はビビりました。マジかと。やられ放題かと。初見ではそう思った方も多いのではないでしょうか。

でも落ち着いて考えたら、まあそんな訳ないと思い直します。自衛隊も実際にあるし、さすがにやられ放題なんて無茶はないだろうと願います。偉い人はその時点できちんと突き詰めて考えるのでしょうが、私はそんなことはなく、「さすがに自衛権は例外っしょ」で済ませて最近まで生きてまいりました。

 

しかし実際のところ、何を根拠に自衛権自衛隊の存在が認められているのでしょうか。自衛権の根拠となりそうなことを挙げてみると、

  1. 国連憲章第51条で認められている。
  2. 実は憲法第9条自衛権を禁止してない。
  3. 憲法第13条のいわゆる幸福追求権によって認められている。

といったところでしょうか。

 

まず「1. 国連憲章第51条で認められている」は、今の場合理由にならないでしょう。確かに自衛権は国連加盟国に認めらている権利ではありますが、

 

「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」

 

とあるように、国連憲章自衛権を邪魔しないというだけです。国連に認められた自衛権を我が国は放棄します、というのであればそれだけの話でしょう。

では「2. 実は憲法第9条自衛権を禁止してない」「3. 憲法第13条のいわゆる幸福追求権によって認められている」についてそれぞれ掘り下げてみましょう。

 

大事なことなのに曖昧すぎる……!

そもそも憲法9条が本当に自衛権を禁止しているのかどうか、厳密に9条そのものの意味を考えてみましょう。

 

まず、第1項

 

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

 

について、これは自衛権も禁止していると見なすべきでしょうか。

国際紛争」がどのような範囲まで指しているのか明確に分かりませんが、日本の国家が主体で武力紛争をしていることはそもそもあり得ない想定ですから、

  • 日本国主体の非武力的紛争
  • 日本国ではないが日本国内の勢力が主体の(武力)紛争
  • 他国間同士の(武力)紛争

あたりを指しているでしょうか。

何れにしても、一方的に攻撃を受けるような状況を紛争とは言わないでしょうから、それを解決するための最低限の武力行使まではこの文章では禁止されていないと解釈できます。

 

次に第2項ですが、前半部分は後回しにしてまず後半部分

 

「国の交戦権は、これを認めない」

 

について考えてみます。ここで問題となるのは、「交戦権」という言葉の明確な定義が存在しないことです。

文字の通りに考えたら単に戦う権利であって、自衛権を含むでしょうから、この条文でもって自衛権は否定されることになります。

ただし、何しろ明確な定義も共通認識もありませんから都合よく解釈する余地はある程度あって、政府としては以下の見解を示しています。

 

「ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものです。一方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものです。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません。」

 

要するに交戦権とは戦争をした場合に国際法上認められている権利のことであって、戦争と自衛は別物だから、自衛で最低限戦うのはセーフなのだ、ということですね。

「交戦権」という言葉の定義としては、そう定義するならそれで良いか、と思えるくらいには妥当な気がします。

ただし今は自衛権が何を根拠に認められているかを突き詰めているので、自衛権の扱いがはっきりしないうちには「自衛のためならセーフ」という論法は怪しいところです。

そういう意味だとしたら第1項と何が違うの、という感じもします。

 

とはいえ、「交戦権とはガンガン敵地に乗り込んで戦うことだ」という感じに定義しておけば、自衛権までは禁止してないという解釈はギリギリあり得るかもしれません。

 

では最後に、後回しにした第2項前半部分

 

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」

 

ですが、これはもう解釈の余地はひと通りしかありません。とにかく戦力を保持しないということだけです。

他の部分をせっかく頑張って都合よく解釈してもこれではどうしようもない。自衛権は認めるけど戦力を保持してはいけないとなると、結局自衛できないに等しいでしょう。

 

自衛隊が「戦力」でないというのは流石に無理がありますから、自衛隊の存在は憲法違反と言わざるを得ません。

 

13条で打ち消すという力技

9条をうまく解釈しようとするだけでは無理がありましたが、どうにか辻褄を合わせる大道具として、以下の憲法第13条でキャンセルしてしまえば良い、という見解があるようです。

 

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

 

これによって、国民の幸福を脅かす武力行為に対しては抗うことが許されるというわけです。9条には矛盾していますが、こっちを優先することにすれば、自衛隊の存在も認められるし、対象が自国民だけなので、集団的自衛権は9条によって禁じたまま個別自衛権は認められます。

結論だけ見れば良い感じだし、現状に沿っていますね。

 

自衛隊の存在が憲法に違反していないとする立場の人たちは、これを根拠に挙げることが多いようで、政府もこの見解を示しています。 

 

でも普通に考えたら「そんなのあり!?」ですよね。9条より13条の方が優先されるべき客観的な理由がない。というよりも文章構成だけを見ればむしろ逆です。

13条は9条に比べてより広汎かつ抽象的な条文です。

抽象度で重みが変わるわけでは無いと思いますが、ポイントになるのは、幸福追求権は自衛権だけではなく様々な形の人権について述べている、ということです。一方で9条は戦力や交戦権の不保持に完全に的を絞っています。

広汎に定めた条文について、特定の場合は別の条文で例外を許す、ということは普通にあり得ますが、その逆は不自然ですよね。

 

「トマトは嫌いだ。野菜は好きだ」と言われたら、「野菜全般好きだけどトマトに限り嫌いなんだな」と普通は思います。「野菜が好きだと言ったんだからトマトも好きだろう」とは解釈しないでしょう。

現状は「でも実際にずっとトマト食べてんじゃん」という話で、最初に指摘すれば良いものを放っておいたがために、もう後者の解釈で納得しておくしかないかなぁ、どうかなぁ、という感じでしょうか。

 

実際、13条で自衛権を認めるのであれば、9条の第2項の前半部分

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」

は条文として完全に死んでいるわけです。後半部分の

「国の交戦権は、これを認めない」

も、交戦権の定義次第では死んでいる。

例えば前半部分なんて、まるまる無くしても意味が変わりません。第1項によって、戦力は結局自衛のため以外には使えませんから。

後の条文でまるまるキャンセルような文章をわざわざ書くというのは、いたずらに混乱を招くだけで流石に不自然ですよね。

 

むしろ普通に読んだら、様々な形の幸福追求権が13条で認められているものの、自衛権に限っては9条で否定されている、と読めるはずです。

9条第2項は無くしても意味が通りましたが、13条を無くしたら全然意味が変わってしまいます。つまり9条第2項も13条も無駄にならないので、先ほどのような不自然さはありません。

もちろん、こんな解釈では誰も幸せにならないのでナンセンスですが。

 

結局、改正するべきか?現状維持のデメリットは何か

以上のような考察を踏まえると、少なくとも自衛隊の存在が憲法によって認められている、とするのはかなり難があります。

13条を使った力技は、今まで看過してきた言い訳としては充分ですが、今後このままにして良いかどうかはまた別です。

 

自衛隊(および自衛権)の現状が違憲だという立場に立って、話を進めてみます。論理的には、自衛隊を廃止するか憲法を改正するかの2択しかなくて、自衛隊が必要ならば憲法を直ちに改正するべきだ、というのは正しいでしょう。

しかし法的に正しいことと、それが国民に必要かということは微妙に別問題です。「実際今までなあなあでやってきて誰も困らなかったんだから、いいんじゃん」というのも正直分かる気がします。

下手に改正して現状が変わってしまう懸念もあって当然です。

 

しかし、現状維持することの現実的なデメリットは本当にないのでしょうか。

まず一つ挙げるとすれば、現状が違憲だと認めるならば、憲法を改正せず現状維持という選択をとることは、憲法の価値を歪めることに他なりません。

実際、憲法改正論議が今のようにヒートアップする前から自衛隊違憲性に関する指摘自体はあったわけで(というか9条を見たら子供でも矛盾しているとまず思いますよね)、その頃から「憲法ってそんな感じでいいんだ。法律より偉いというけど実質的な力はそれほどではないのかな」という印象が私個人の感覚としてはありました。

 

今こうやって憲法について考えを整理していても、その印象は変わらず、むしろあまりにも曖昧でうんざりすらしています。

柔軟性を持たせるためにあえて範囲を特定せずに条文を定める、というのはあり得る手段で、いわゆる「新しい人権」を13条でリカバーできることは、その成功例かもしれません。

しかし9条の曖昧さはそれとは別ですし、日本人の根幹に関わる重要な条文ですから、もう少し意味の通ることをはっきりと書いて欲しかったと思わざるを得ません。一番大事なところで未定義語を使ったり……

当時のアメリカとの関係などで難しい部分もあったのかもしれませんが……どうなのでしょう。

 

9条のように無理矢理の解釈次第で憲法もスルーできる、という価値観が浸透してしまうと、いつか憲法をないがしろにするヤバい政治が行われた時に、まかり通ってしまう可能性もあります。

安倍政権に強く不信感を抱いている人であれば今がまさにその時だと言うかもしれませんし、そうでなくても、従来はとんでもないと思われていたことを無理やり定着させたらいつの間にか当たり前に受け入れられるようになった、というのはよくある話ですから、今後何が起こるか分かりません。

 

ちなみに、憲法を改正しようとすること自体が憲法を甘く見ている行いだ、という意見もありますが、それは流石に暴論でしょう。憲法の改正も憲法に認められた手段の一つです。

そもそも憲法も人が作ったものですから、どれだけ普遍的かつ間違いのないように気をつけて作ったとしても完全とは限りません。

憲法を遵守するという観点から見たら、場合によってはきちんと改正して、それをきちんと守るということが正しいと思います。

 

二つ目は、今述べたことにも関連しますが、集団的自衛権の扱いが不明瞭だという点です。

集団的自衛権そのものは決して戦争できる権利などではなく、必ずしも悪いものではありません。何でもかんでも対岸の火事でいいのだとも言えません。

ただし国単位の話となると、正しくその権利を使いこなすのは難しく、歴史を鑑みれば危ういことも否定できません。

個別的自衛権とはかなり性質が違うので、十分に扱いを注意するべきです。

 

私個人としては今のところ、難しい判断ですが、日本は集団的自衛権については認める必要がないと思っています。

日本以外の国では普通に認められている場合が多いでしょうが、だからこそ、他の国々が行き過ぎないようにブレーキをかける役割を担っても良いかと思います。

国際情勢の中でその決断がどの程度認められるか分かりませんが、少なくともそれを目指した上で妥協点を探るのが良いのではないかと思います。

 

しかしながら、9条がどのレベルまで自衛権を認めているか、13条が9条にどこまで干渉できるかは解釈が分かれるところですから、集団的自衛権まで認めるかどうかの解釈も当然分かれるでしょう。

現状では認められているという解釈もあり得ると思います。

また、集団的自衛権を認めるという行為に対して明確に違憲だと指摘する材料がない以上、実質的に認めざるを得ないのとほぼ同じでしょう。

安倍内閣集団的自衛権を一部認める閣議決定をした際も散々揉めて、違憲だと主張する人もたくさんいましたが、結局のところ憲法によって制限することはできなかったわけです。

 

以上を総括すると、やはり憲法を改正して、個別的自衛権集団的自衛権、および自衛隊の在り方をきちんと定めて、悪用ができないようにするためな必要十分な条文も課すべきだというのが私の現在の意見になります。

他にも経済や社会保障など色々な問題を抱えているのだから今急いでやる必要がない、という見方もありますが、その手の問題が無くなる日は来ませんから、正しく改正できるのであれば今やるべきでしょう。

下手に変えるくらいならば先延ばしにせざるを得ませんが。

 

改正案を踏まえて

さて、改正すること自体には賛成するとして、現在の改正案で良いか、現在の政権が正しく改正することを見込めるかはまたまた別の話です。

現在の改正案で気になる点を挙げてみます。

 

集団的自衛権の扱いについて

現在の改正案では、「自衛権」は個別的自衛権集団的自衛権の両方を含むものとして、完全に認めることになっています。

私自身は集団的自衛権を認めない方が良い、あるいは認めるにしても最低限に留めるのが良いと思っていますが、完全に認めるとしても、悪用できないような保険は絶対に必要です。

現政権が悪用しようとしている、とまでは言いませんが、今後悪用しようとする人間が現れても全くおかしくありません。

改正案では法律によって詳しいルールを定める、と書いていますが、その案を見ないことには賛成できない人も多いでしょう。

また、法律は憲法よりも変えるハードルが低く、法律に丸投げして良いとも思えません。

何から何まで憲法に書くわけにはいきませんから、どこまで踏み込むべきかはバランスの問題ですが、もう少し憲法の時点で指針を定めておくべきではないかと思います。

改正した憲法の中で成立しうる最悪の法律をリストアップして、それらを排除できる必要十分な条文を憲法に付け加えれば良いと思うのですが、どうでしょうか。

 

機密保持について

軍事機密の保持と国民の権利が相反するケースは多いでしょう。どちらも憲法で言及されている場合、どちらが優先されるかが当然問題になります。

現改正案では機密保持についてもほぼ法律に丸投げされていますから、集団的自衛権への懸念と同じで、記述が不十分なように思います。

全てのケースを完全に想定することは不可能ですが、可能な限り想定した上で必要十分な条文を加える必要があると思います。

非常に大変でしょうが、憲法を作るということはそれだけ大変で然るべきでしょう。

 

国民の協力とは

改正案で新しく追加された項目として、

「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海、及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」

とあります。

この中の、「国民と協力して」という部分にどのような意図があるのか、単純に分かりませんでした。普通に読むとあってもなくても変わらなそうな文なので、別に悪意があるとは思いませんが、ここにだけわざわざ付け加えたのか単純に分からない。

そう思ってQ&Aを見ると一応言及してありました。

「国民の『国を守る義務』について規定すべきではないか」という意見が多く出たが、それだと徴兵制について問われることになるので、マイルドにしてみた、ということのようです。

徴兵制に繋がる規定を却下したというのはまあ良いと思いますが、結局付け加えた「国民と協力して」が具体的に何を目的として何を規定しているのかよく分かりません。

Q&Aによれば「軍事的な行動を規定しているのではありません」とあり、「協力」とは「避難港や灯台などの公共施設を整備すること」や「会場で資源探査を行うこと」などを想定しているようです。

いずれにしろ、「国を守る義務」の話が発端ということは、国民に対して何らかの強制力を持てるようにしたい、ということでしょうが、その表現として「国民と協力して」が適切かどうか……

前文に「国民は国を自ら守る」という旨の文章を付け加えていて、それと合わせ技で考えるらしいですが、よく分かりません。

結局大丈夫といえば大丈夫なのかもしれませんが、ちょっとモヤっとはしています。

 

私が引っかかったのは以上ですが、色んな見識のある人が見れば、他にも修正点があるかもしれません。

私の懸念していたことは実は問題なかった、ということもあるかもしれません。

また何か新しい知見を得られたら、ブログにまとめるかもしれません。

 

ひとまず、以上に挙げたような点から、今の私自身の考えとしては、現在の改正案には反対です。

議論をする必要があるという点については賛成ですが、国民の賛同を得られる改正案を現政権が完成させることができるかというと、疑問です。

やる以上はきちんとやってもらえないと困りますが……

 

 今日は以上です。

はじめまして

はじめまして。

世の中のこととや政治について時々書いていくブログです。

 

三十路も近くなり、以前よりは真面目なことも考える機会が増えました。

ただ、テレビやネットで話題に触れた時だけ考えて自己完結しているだけでは、掘り下げも浅いし、だんだん視野が狭くなっていきそうな気がして、なんだか危ういのでは……

今はまだ若者と非若者の境界に差し掛かったくらい(?)ですが、歳をとっても、色んな立場から物事を見て、新しい考え方を受け入れて、論理的に話ができるようにありたいものです。

そもそも今の自分がそうできているかは分かりませんし、むしろ己の無知を学ぶ日々ですが、だからこそ新しい習慣としてブログを始めてみました。

 

自分なりに考えを整理する場、そして可能であれば色んな意見に触れて視野を広げる場にできればと思います。

人に向けて何か書こうと思えば少しは自分で調べたりする癖もつきそうですし、そういう意味でも勉強になるでしょうか。

 

この手のをことをやるのは mixi 以来なので、不慣れですが、よろしくお願いいたします。

「はじめまして」というタイトルからして野暮ったいですね。

アクセスを増やしたくなったら You Tuber とか見てテクニックを学ぼうと思いますが、とりあえずは細々とやっていくつもりです。

 

最初はこんなものでしょうか。

それでは。